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ストーンヘンジの謎

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販売価格 2,147,483,647円(内税)
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世界遺産ストーンヘンジー
ストーンヘンジ(Stonehenge)はイギリスにある世界遺産の一つです。世界で最も有名な先史時代の遺跡で、円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁で成り立っています。 円形に囲われた土手の中には、30もの巨石が直径30mほどのサークル状に直立していて、その立石らの上には横石が乗り、今は崩れてしまっていますが、かつては円形に繋げられていたそうです。 ストーンヘンジはロンドンから西に約200km離れた、イギリス南部・ソールズベリーから、さらに北西に13km程度進んだ地点に位置しています。 アングロ・サクソン人がブリテン島に移住した時にはすでにストーンヘンジは存在しており、遺跡の目的については太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂・・・などなど様々な説があります。 

円を描くサーセン・ストーン。
5mもある巨石群が建ち並びその頂上に渡るのは
「天に架かる橋=ストーンヘンジ」だ。














ブルーストーン
建ち並ぶ巨石の手前にある石がプレセリの
ブルーストーンだ。ブルーストーンの多く
は持ち去られてしまった。










世界遺産ストーンヘンジのサークルストーンには2種類の石が使用されています。大きな白っぽい石『サルセンストーン』と、青緑色に黒の斑点があるような石『ブルーストーン』です。このブルーストーンは、世界で唯一、イギリスのプレセリ鉱山でしか産出されない希少な石で、プレセリブルーストーンという名前が付けられました。 プレセリブルーストーンの採掘は現在、Preseli Bluestone Limited. だけが政府から認められています。 ストーンヘンジの歴史





イギリスに確認される1000カ所以上ものストーンサークル(環状列石)、その中心とも言える最も大きく最も美しい存在。それが、南イングランド・ソールズベリーの北西約13kmの場所に位置するストーンヘンジの遺跡です。
建造が開始されたのは新石器時代にあたる紀元前3000年頃になります。ストーンヘンジの建造は段階を経て、青銅器時代後期に至る約1500年間に渡って行われました。直径115メートルの環状の壕と土塁(土手)が設けられた内側でそれぞれ数十個の立石が中心を五重に囲み、中央部にはアルターストーン(祭壇石)と呼ばれる平石が置かれ、さらにその周囲にも巨大な組石が馬蹄状に配置され状態が最終形です。少なくとも建設が終わった後、いったんは放棄され、1918年に国が所有することになるまでの長い間、荒れ放題の状態にあったストーンヘンジですが、その翌年には倒壊を防ぐための補強工事が実施されています。そして1986年、ストーンヘンジの遺跡とその周辺はユネスコの世界遺産に加えられ、登録古代モニュメントとして法的に保護されるようになりました。
現在、ストーンヘンジはイギリスの国家遺産として管理され、その周辺についてはナショナルトラスト(歴史的名所や自然的景勝地の保護を目的とするボランティア団体)によって保有されています。
【ストーンヘンジは誰が作ったのか?】


ストーンヘンジを作ったのはだれか?
その目的と同様に、あるいはそれ以上に大きな謎の一つです。
「巨人、巨石人、ストーンヘンジ人・・・」 科学の発達していない先史時代に建造されたのだから、あれだけ巨大な石を扱うことができたのは巨人の仕事に違いないという発想からか、そのように呼ばれることが多いようです。 巨人たちによる巨石文明の存在、それは神々のことかもしれませんし、確かにロマンチックな考えではあります。 しかし歴史をひもといてみても、ストーンヘンジが建設されていた先史時代の記録はほとんど残されていません。 考古学的には紀元前約3000年頃、新石器時代のブリテン諸島で暮らしていたのはウィンドミル・ヒル人。彼らは半遊牧の生活をしていました。 紀元前2000年頃、青銅器時代にかけては誇り高き戦士であるビーカー人、後期にはウェセックス人がソールズベリー平原を駆けていました。武器や装飾品とともに眠るウェセックス人の墳墓が見つかっています。 ケルト系でイギリスの主要な先住民族のブリトン人が、ヨーロッパ大陸からグレートブリテン島(現在のイギリスの国土の大半を占めます)に移住してきたのは、ローマ帝国の属国だったブリタニアの時代、紀元前300年頃です。 ストーンヘンジの建設が終わってから実に1000年以上も経っています。 ストーンヘンジとほぼ同時代に140以上ものストーンサークルが作られているという理由からスコットランドの先住民族ピクト人が巨石文明を築いたのではないかと考える人もいるようですが、彼らもまたその多くはヴェールに包まれたままです。

【ストーンヘンジは何のために作られたのか?】

ストーンヘンジを作ったのはだれか? 専門家や考古学者、神秘家、さまざまな人たちが取り組んでいるテーマです。 ストーンヘンジの建造方法とともに、その奇跡とも言える偉業にまつわる謎は多くの伝説、科学的仮説を生み出しました。 中でも一般的によく知られている説は、礼拝や祭祀を行う「儀式の場」としての解釈、「古代の天文台」としての解釈です。 しかしどちらの説にも大きな疑問が残ります。その目的が神に祈りを捧げることだとしても、天体を観察することだとしても、これほど手の込んだ建造物が必要だったのでしょうか。


【ドルイドの巨石神殿】

ストーンヘンジでは毎年、夏至の祭典が開催されます。かつてドルイド教徒が一年で最も昼の長い日の日の出を拝むために行っていた儀式に由来し、ストーンヘンジが夏至の日の出に向かって配置されていると思われることが理由です。 現在は特定の石の方向から昇る朝日を見ようという観光客が各地から数多く訪れるイベントになっていて、‘09年は6月21日に行われました。 巨石群を背景に日の出を待つ観光客が発光ボールを振り回す様子は、ナショナルジオグラフィックの記事でも紹介されています。 ドルイドとは古代ケルト社会における祭司階級のことですが、宗教の範囲にとどまらず政治的指導者としての役割も担っていたとされています。 ドルイドが最も神聖視していたミスルトー(ヤドリギ)の木は万病の薬と考えられ、冬至と夏至の日に恭しく採取されていたと言い、ケルト文化においては一年を四季支払日と四季の節目にあたる冬至と夏至、春分と秋分の8つに区分した暦が用いられていました しかし、そうしたドルイドの時代よりもずっと以前にストーンヘンジは廃墟化していたそうです。 さらに、ドルイドに関する文献はほとんど残っていないことから(ドルイドはその叡智を口伝で伝えたとされています)、現在の儀式そのものも想像の産物でしかなく、それらの事実を考え合わせれば、ストーンヘンジ建造の当初の目的がドルイドに関連している可能性は低いと言えます。 ただし、ストーンヘンジが神殿として礼拝に使われていたという可能性をも否定することにはなりません。

【天文学的な意味】

ストーンヘンジを作ったのはだれか? その目 ストーンヘンジでは夏至の日に北東の地平線から太ストーンヘンジでは夏至の日に北東の地平線から太陽が昇りますが、一方で、冬至の日には正反対の南西方向に太陽が沈みます。 つまり、冬至の日没に向かって配置されているとも言え、夏の日の出と冬の日の入りを見通すことのできるストーンヘンジは、天空の事象を観察するための天文学的特徴を持った施設でもあるのです。 イギリスの天文学者ジェラルド・S・ホーキンスは1963年にネイチャー誌で論文を発表、続いて1965年に著作『ストーンヘンジの謎は解かれた(Stonehenge Decoded)』を刊行して議論を巻き起こしました。 まず、ホーキンスはストーンヘンジの「主要な方向軸が天体の重要な位置を指しているかどうか」を検証します。 図面化したストーンヘンジの地理学的データ(石、石穴、その他の穴、塚の地点の緯度、経度、軸の方位およびスケールなど)を電算機(コンピュータ)に入力し、計算したのです。 そして、ストーンヘンジの主要な地点は太陽と月の極限の位置と、その他多くの方向軸を作っていると結論付けています。 また、ホーキンスは「巨石構造が日食月食を予測」していたという説も唱えています。 月食が起きるには月が太陽の反対側に位置していなければならないという事実は太古から知られていました。 オーブリーホールを始めとする数多くの穴、円、ストーンヘンジ全体が天球上における太陽と月の軌道を示す巨大な測定器として使われていたのです。 オーブリーホールの円周上、夏至の日の出の軸線と直角に交わる長方形を作る位置に建てられた4本の立石はステーションストーン(測量石)と名付けられ、その名前が示すように観測のための石と考えられています。 先史時代の人々にとって、日月食は単なる自然現象の範疇を超えた深刻な重大事でした。 天照大神が姿を隠して世の中が闇に閉ざされてしまうという有名な古事記または日本書紀の説話からも分かるように、太陽(月)は神(女神)そのものであり、人々は日月食に大変な恐怖と不安を感じたに違いありません。 その真偽のほどは定かではありませんが、古代中国では宮廷に仕えた天文学者が日食を見逃したというだけで処刑されてしまったという話も伝わっています。 当時の神官たちは天体の観察から農作期を知るための暦を作り、古代の人々が最も恐れた日月食の予測を行うことによって、自分たちの権勢を確かなものとしていたのだと、ホーキンスは主張しました。 後になってストーンヘンジの権威とされるリチャード・アトキンソンら考古学的立場の専門家たちから、ホーキンスの理論は極端で非現実的であると批判されました。 しかし、ホーキンスに限らず天文学的な解釈は、超自然的な目的、あるいは伝説に近いドルイドの神殿と考えるよりも、現代社会においてははるかに現実的な解釈なのかもしれません。 確かなことは、ストーンヘンジに関する新たな発見が今も続いているという事実です。

【ストーンヘンジ・リヴァーサイド・プロジェクト】

ストーンヘンジ・リヴァーサイド・プロジェクト」は、ナショナルジオグラフィック協会の支援により2003年から2008年の5年間に渡って段階的に行われた発掘調査です。 イギリス・シェフィールド大学のマイク・パーカー・ピアソン教授を始めとする6人の専門家が指揮する合同チームによって手がけられ、範囲はストーンヘンジ一帯のアヴェニュー、エイヴォン川、ダーリントンウォールズ、カーサス、ウッドヘンジ、墳墓、近隣の立石にいたる大がかりなプロジェクトでした。 このプロジェクトにより、新たな事実が数多く発見されています。 最大の収穫はストーンヘンジから約3キロメートル北東に位置するダーリトンウォールズ(直径450メートルの巨大ヘンジ)で、‘06年9月に見つかった新石器時代の集落跡です(イギリスでは最大の住居跡の発掘で、約30棟の住居を識別)。 そこにはストーンヘンジの建造に携わった人たちが住んでいたとみられ、夏至や冬至など“祝祭”の時に集まる儀式の場としても使われていた可能性が指摘されています。 また、木の柱だけで構成されていることから名付けられたウッドヘンジ(1925年に発見)も北東に隣接していますが、ここでストーンヘンジと同じ石柱に建て替えられていた穴が発見され、さらにその石柱がストーンヘンジに組み込まれた可能性が明らかになっています。 ‘08年4月の発掘調査では、ストーンヘンジの石の周囲に残っている支柱用とみられる穴の一つを分析した結果、それまでは紀元前2500〜2000年とされていたストーンヘンジの建立時期は紀元前3000年前後だったということが分かりました。 そして最も興味深いのは、ストーンヘンジから1.6キロメートルほど南東のエイヴォン川西岸で見つかったミニストーンヘンジ(‘09年10月)。 直径10メートルの小さなサークルですが、25個と推定される列石はすべてブルーストーンから成ります。 そうして名付けられたのは“ブルーストーンヘンジ(またはブルーヘンジ)”です。 発掘を担当したのはシェフィード大学のピアソン教授のチームでした。ピアソン教授によれば、ブルーストーンは数千年前には取り除かれ、エイヴォン川からストーンヘンジにいたるアヴェニューを示す立石にされたと見られています。

【新説!!ストーンヘンジ=治療センター説】



1964年以来となる大規模な発掘調査が2週間に渡って行われた結果(‘08年4月)、発掘に加わった科学者たちは、ストーンヘンジのブルーストーンがヒーリングの石としてあがめられていた可能性を示しました。 そして同様に、イギリス・ボーンマス大学の考古学者たちもまた、ストーンヘンジの遺跡が、石にヒーリング効果があると信じた人々が訪れる巡礼の地であったという説を公表しています。 このニュースは‘08年9月22日、BBC(イギリス国営放送)から世界中に配信されました。 主な根拠として挙げられたのは、ストーンヘンジ周辺に埋葬された遺体の多くに外傷や奇形の兆候が見られたことです。 なぜこの場所でなければいけなかったのか? 学者や専門家たちはその問いに対する答えは持ち合わせていませんでしたが、一つの仮説が浮き上がってきます。 科学の範疇にとどまるならば、この答えが導き出されることはないでしょう。 太古の昔、人々にとって石は神とスピリットを宿す神聖で神秘的な存在でした。 固定観念を捨て、ブルーストーンがヒーリングに用いられていたと認めることができれば、その土地自体にヒーリング効果を高める力が秘められたパワースポットだったからこそ、遙か彼方にあるウェストウェールズのプレセリ山地から石を運び、ストーンヘンジを作ったのだと考えるのは容易なことです。 ストーンヘンジ・リヴァーサイド・プロジェクトにおいて、ミニストーンヘンジとも言われるブルーストーンヘンジ(ブルーヘンジ)が発見されたのは、その裏付けとも言えるでしょう。

【ストーンヘンジ一帯が連動的に機能】


ストーンヘンジの周辺には多くの墳墓があり、住居跡も見つかっています。 1950年代に見つかった3人の火葬された遺骨に対して放射性炭素年代測定を行ったところ、それらの遺骨は500年間の長い年代に渡っていることが判明し、祖先崇拝を行う古代ブリトン人にとってストーンヘンジは死者を祭る場所であり、埋葬地の役割を持っていたという結論が導き出されました。 最も古い遺骨は火葬された骨と歯で、56個の竪穴(オーブリーホール)の一つから発掘されています。 ストーンヘンジを囲む壕から見つかった2番目に古い遺骨は紀元前2930〜2870年頃に埋葬された成人の骨、壕の北側から出土した3番目の遺骨(紀元前2570〜2340年頃)は、20代の女性のものだと特定されました。 ストーンヘンジ・リヴァーサイド・プロジェクトのリーダーであるピアソン教授(シェフィールド大学)は、こんな仮説を立てています。 ウッドヘンジ(ダーリントンウォールズ)にもストーンヘンジのアベニューと似た道があり、死者が出ると、そこからつながるエイヴォン川に遺体が流され、下流で引き上げられてアベニューからストーンヘンジに運ばれて火葬されていたというのです。 生の領域であるウッドヘンジと、死の領域であるストーンヘンジは、エイヴォン川で結ばれていたという発想です。 ストーンヘンジを形作る石は肉体が死を迎えた後に残る白い骨の硬さ、死者をしのぶ永遠の想いを、ウッドヘンジの木は時が来れば朽ちていくはかない生を象徴し、同時に石は祖先と男性、木は女性と赤ん坊を示していると言います。 ちょうど、日本神話(古事記または日本書紀)に登場する女神、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と石長比売(いわながひめ)を思い起こさせる話です。 高天原から降臨した神であるニニギの御子に嫁いだ地上の女神、木花咲耶姫と石長比売の姉妹でしたが、容姿の醜い石長比売は送り返されてしまいます。 しかし、二人の娘を嫁がせた父の大山津見神(オオヤマツミ)には意図がありました。 石長比売は夫ニニギに岩のような永遠の命をもたらし、木花咲耶姫は木の花が咲くように繁栄をもたらすという理由があったのです。 結果的にニニギは神でありながら限りある命を持つ存在となり、その子孫とされる天皇も寿命を持つ人間に・・・と、神話では伝えられています。 ここで注目すべきは、生と死がともにあるように、ストーンヘンジとウッドヘンジ、あるいはその他周辺の遺跡が、一体的に機能していたと考えられる点です。 生と死の世界を結ぶ行列に想いをはせれば、エイヴォン川からストーンヘンジにつながるアベニューは賽の河原とイメージが重なります。 アベニューの道に高低差があることを理由に、冬至の日の入りに合わせてサルセンサークルに向かって歩けば、日没を2度見ることができると言います。 それが事実だとして、日没を2度見ることが情緒を感じる以外に意味があることなのかどうかは分かりませんが、死者を送る行列、日本の野辺送りを思わせる、そうした光景が自然に浮かんできます。 ピアソン教授の埋葬地説は現代人にとって受け入れやすく説得力のある解釈と言えますが、ストーンヘンジが他にも複合的な役割を担っていた可能性は十分にあります。 治療を求める巡礼者の集う場所であり、心ならずもその願いが叶わなかった時には終焉の地となり、残された者たちが祈りを捧げる神殿ともなる、まさに聖地だったのかもしれません。 ストーンヘンジの変遷

【ヘンジの始まり】











紀元前3000年頃、ソールズベリー平原で最初に作られたのが直径115メートルにも
及ぶヘンジ(円形の土塁)でした。壕が掘られ、その内側に高い土手が築かれます。
そして、土手の内側にはオーブリーホールと呼ばれる56個の穴が造られました。



【木造建築物の時代】


紀元前3000年頃、ソールズベリー平原で最初に作られたのが直径115メートルにも及ぶ
ヘンジ(円形の土塁)でした。壕が掘られ、その内側に高い土手が築かれます。そして、
土手の内側にはオーブリーホールと呼ばれる56個の穴が造られました。新石器時代中期
から後期、木造のモニュメント(木柱群)がヘンジの北東の入り口付近と、中央から南
の入り口よりに現れました。

【最初のストーンサークル】


木柱群は数百年で廃れたとされ、紀元前2500年頃になってブルーストーンによる二重
の円環が最初のストーンサークルを構成しました。 アヴェニュー(2本の並行する土手
に挟まれた道)が現れ、土手の内側にステーションストーン、中央部にアルターストーン
(祭壇石)、そして北東入り口の外にヒールストーンが建てられます。

【サルセンサークルの登場】


中央部は一変し、現在の形になります。高さ5メートルのサルセンストーン30個を
配し、その上にまぐさ石(リンテル)を水平に置いて造られた円は、サルセンサー
クルと名付けられました。 内側にはトリリトン(三石塔)と呼ばれる5基の組石が
馬蹄形(U字形)に並びます。さらに、エイヴォン川に続くアヴェニューは約3キロ
メートルになりました。

【ブルーストーンの再配置と建設期の終わり】


青銅器時代の後期に入り、放棄されていたブルーストーンがサルセンサークルの内側
に馬蹄形または円形に並べ直されます。 サルセンサークルの外側を囲むように二重の
円を造る穴が掘られましたが、そこに石が建てられることはなく、紀元前1500年頃に
ストーンヘンジは放棄されたと見られています。

56個のオーブリーホール

オーブリーホールは、17世紀の古物研究家である発見者のジョン・オーブリーの名前に由来し
ています。 この56個の穴群はストーンヘンジの謎の一つです。それらの穴には木の柱が立
てられていたという説があり、痕跡が残っていなかったことから議論になっていましたが、
‘03年に始まった発掘調査(ストーンヘンジ・リヴァーサイド・プロジェクト)において、
ブルーストーンのサークルを造る穴だったことが分かっています。

ストーンヘンジーを構成する石とは?

青い石と白い石 青い石はブルーストーン、白い石はサルセンストーンのことです(実際にはサルセンストーンは灰白色、ブルーストーンは濃緑から濃紺の色合いといった方がより正確かもしれません)。 置かれた場所や形などの特徴によって別の名で呼ばれている場合もありますが、主にはそれら2種類の石を使ってストーンヘンジが作られました。 一個の重さが2〜7トンもあるブルーストーンは240キロメートルの彼方にある西ウェールズから、サルセンストーンにしてもブルーストーンよりも大きくて重い石(最大で40トン超)が約32キロメートルも離れた場所から運ばれてきたものです。 およそ5000年前、現在とは比べようもないほど困難、それどころか不可能とも思える運搬事情にあった時代です。 その事実を考えれば、いずれも特別な石だということが分かるでしょう。 特に、ブルーストーンにこだわらなければ、ソールズベリー平原から北へ数十キロメートルほど行けば、いくらでも巨石(サルセンストーン)は採れたのです。 ただし、近年になって、氷河期にアイリッシュ海氷河の活動によって削り取られた岩屑や土砂などがソールズベリー平原に堆積してできた氷堆石がブルーストーンだったという説も唱えられています。






神秘の石ブルーストーン

大なゲート状に組まれた5基のトリリトン(組石)を囲むように直立した立石の配置された
サルセンサークル内側の円を築いている石がブルーストーンです。
「プレセリ山地は、アーサー王や魔術師マーリンにまつわる多くの伝説を生み出す素地となる
神秘的な雰囲気が明確に漂う、美しくワイルドな場所です。そして、そこには妖精の王国
フェアリーキングダムが存在すると言われています」プレセリブルーストーンの供給元では、
ブルーストーンの生まれた故郷である西ウェールズ・プレセリ山地の環境をこのように紹介しています。
ブルーストーンは現在も西ウェールズにあるプレセリ山地から採掘され、“プレセリブルーストーン”として市場に流通していますが、その埋蔵量には限りがあるため、毎年の採掘量に制限が設られ、慎重に供給されています。 斑点輝緑岩とも呼ばれるブルーストーンは、約4億8000万年前に起きた火山活動によって生まれました。 鉱物としては、斑点のあるドレライト(粗粒玄武岩または輝緑石)を中心に、火山灰とライオライト(流紋岩)で構成された粘板岩です。 ドレライトは主にカルシウム長石とオージャイト(ふつう輝石)から成り、銅とパイライトも微量に含まれています。 磨かれたブルーストーンの表面には灰色がかったダークブルー(またはダークグリーン)を背景にちりばめられた石英と長石の結晶によるライトグレーやライトグリーンのまだら模様が描かれ、微妙に異なる多彩な表情を持っています。 この希少な石は今後も大切に守られ、その神秘の力を次世代にまで伝えていくことでしょう。

【アルターストーン(祭壇石)】

サルセンサークルが現れる前、最初のストーンサークルを構成する石の一つとして、アルターストーンが建てられました。 サルセンストーン以外では最も大きなサイズ(4.9×1.1×0.5メートル)となる緑色の雲母砂岩(かけら状の雲母を多く含んだ粒の細かい薄緑色の砂岩 ※赤色砂岩から成るコシェストン層から産出)で作られたアルターストーンは、ウェールズのプレセリ山地から南西約48キロメートルの海岸部に位置するミルフォードヘブンで産出し、そこから運ばれてきたと考えられています。

サルセンストーン

サルセンストーン(サルセン石)は、ホワイトグレーの大砂岩のことです。 最大で50トンに及ぶこの巨石はウィルトシャー州北部のエイヴベリー近く、ストーンヘンジから約32キロメートル離れたマールボロダウンズから運ばれてきました。 石の名前は俗称で、「外国の」という意味か、または石の見た目の奇妙さを言い表した「サラセン」という言葉が由来になっているそうです。 第三紀(6430万年前から180万年前にあたる地質時代)の終わりから後氷期にかけて形成された堆積岩であり、密集した砂がシリカセメントで固められて生じた硬い岩、シリカ化した砂岩の一種になります。 先史時代のストーンサークル遺跡があるエイヴベリーおよび南イングランドに点在する巨石建造物も、大半はサルセン石で作られています。 それらは主に、ソールズベリー平原、マールボロダウンズ、ケント州、さらにバークシア州、オックスフォードシャー州、ドーセット州、ハンプシャー州など、南イングランドの広い地域に見られます。 しかし、サルセン石で作られた2本の立石の上にまぐさ石を横たえた鳥居のような組石、通称トリリトンはブリテン島に残されたそれらの環状列石には見られません。 そのトリリトンと開口部のヒールストーン、サルセンサークルと名付けられた直径29.7メートルに及ぶ外周部の円環、ストーンヘンジを特徴付ける最も象徴的と言える部分を構成している石なのです。

【ヒールストーン)】

推定重量35トンのサルセン石はおおよそにして、長さ6.1メートル、幅2.4メートル、厚さ2.1メートルの巨石。真っ直ぐに立てられたものと思われますが、現在は内側に向かってやや傾いています。 ストーンヘンジの中心から北東側の入り口を向くとヒールストーンの頂に夏至の日の出が見られると言われています。 その名前の由来は明らかにされていませんが、名付け親と見られているジョン・オーブリー(オーブリーホールを発見した古物研究家)は「修道僧のかかと」のような形をしたものがあったからだと述べているそうです。 「かつて、あることで悪魔と戦っている僧がいた。あるいは、その逆だったかも知れないが、とにかく悪魔はその特別な石をつかみあげるや、僧に投げつけた。それが彼のかかとにあたり、ここに“僧のかかと”という名が生じたという」(新潮選書『ストーンヘンジの謎は解かれた/G・S・ホーキンズ』より)

【トリリトン(三石塔)】

トリリトンは3つの石を意味するギリシャ語にちなんで名付けられました。 その由来の通り、直立した2本のサルセンストーンとその上にまぐさ石を渡して作られた組石です。 サルセンサークルの円環を構成する30個のまぐさ石は曲線を描いて形作られ、確実に固定するための建築手法(板同士を小口面で接合する「さねはぎ継ぎ」と呼ばれる方法)が用いられていました。また、立石のほぞと結合するほぞ穴も設けられ、さらにはパルテノン神殿にも見られるエンタシス(円柱の下部または中部から上部に向かってゆるやかに細くなる形状※日本では法隆寺の柱が有名)と呼ばれる建築技術が用いられています。 花崗岩の数倍は硬いと言われるサルセン石に対して、そのような木工技術を応用した知恵と技術の高さは、巨石運搬の方法とともに、ストーンヘンジの謎の一つに数えられます。 ※まぐさ石:古代建築においては、積み上げられた石柱の上に置かれた石のことを指します。「まぐさ」とは2本の支柱の上にブロックが水平に渡された構造のことです。

1 世界遺産ストーンヘンジの石


イギリスにある世界遺産の一つ、巨大サークルストーンでもある「ストーンヘンジ」の
中央部分に使用されている大変貴重な石がプレセリブルーストーンです。 プレセリブル
ーストーンは世界で唯一、イギリスのプレセリ鉱山でしか産出されない希少な石です。

2 採掘量が限定された希少な石


プレセリブルーストーンの採掘は現在、イギリス国内で唯一、プレセリブルーストーン
インターナショナル社だけがイギリス政府から認められています。 その埋蔵量には限り
があるため、毎年の採掘量に制限が設られ、慎重に供給されています。

3 全ての商品に証明書が付きます


プレセリ鉱山の所有者であるプレセリブルーストーンインターナショナル社コリン氏と
独占契約を結び、プレセリブルーストーンをお届けしています。 商品としてお届けする
プレセリブルーストーンには全て、コリン氏による証明書が付いています。

4 偉大なヒーリングパワー

プレセリブルーストーンはエネルギーを強め、安定させてくれるとてもパワフルな石とさ
れています。 スピリチュアル性を向上させるとともに、現実レベルで安定を手助けしてく
れる調整と保護に適した石といわれています。

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